MY RIGHT HAND WITH G 『右手がGの男』
『長船にて(1)』

 「人生にはみっつの坂がございます。ひとつめは上り坂、ふたつめが下り坂。そしてみっつめの坂が、『ま・さ・か』といいまして。ええ、長い人生、なにが起きるかわかりません。なにが起きるかわからない、それが人生なんです。でも、このおふたりなら大丈夫と確信しました。夫婦力を合わせて、この『ま・さ・か』に立ち向かってくださいっ!」
 そんなスピーチを聞かされたのは誰の結婚式だったか……あれ、オレだったか? いやいや、オレ結婚したことないし。ともあれ、だ。「ま・さ・か」が人生につきものといって、ここのところのオレにはあまりに頻度が高すぎだって。いまのオレを見てくれ。いまのオレ……岡山県瀬戸内市の長船の回転寿し屋の厨房で絶賛皿洗い中。右手のガジラは台所用洗剤で泡まみれ。極めつけは、オレの隣で椅子に座って日刊スポーツを読んでいるこのジイさん、なんとあの千葉真一ときた!
「おい、いま泡が飛んだぞ! もっと優しく扱うのだぁ。ハアアアアッ!」
 モーガンとの邂逅の翌朝、オレは瀬戸大橋線と赤穂線を乗り継いでJR長船駅にやってきた。駅の改札で誰かが待ってくれてたりするのかと思いきや、誰ひとりいない。まこと簡素な駅だった。オレはしばらく駅舎の一角にあった貸本コーナーの本を物色した後、散歩がてら歩き始めた。恐ろしいくらい何もない町だった。片道一車線の県道を当てもなく歩いていると、ほどなくして回転寿司店の看板が目に入った。ほかに行くあてがわるわけでなし、こころなしか腹も減っていたので店に入ってみた。昼時を少し過ぎていたからか、オレのほかに客はいない。コの字のカウンターのなか、四角い顔の大柄な男が黙々と仕込みをしていた。
「あの、お味噌汁もらえますか?」
 四角顔がこちらをちらと見て、
「赤出汁いっちょう!」
 レーンを回っている皿を一通り眺めてはみたのだが、寿司の景色があまりよろしくない。ついぞ手が伸びない。
 と、横からすっと、椀を手にした太い腕が伸びてきた。驚いて飛び上がった。足音もなく、まったく人の気配がしなかった。気配を消していた? オレは隣に立っている男を見上げた。
「ん? んんんっ!!」
 こ、この男……この男!
「ち、千葉真一!?」
「はて、なんのことでしょうか?」
「あ、あなた、俳優の千葉真一さんですよね? ですよねえ?」
「さてさて困った。いったいなんのことやら−−−−ハアアアアッ!」
 男は唐突に右の足をすり足で引いたと思うと、息を絞り出すような音を漏らしながら構えの姿勢をとった。
「いや、ハアアッって……」
「いかにもわたし、千葉真一です。長らくあなたを待っておったのだよ」
「え、オレを?」
「ユウイチぼっちゃんからあなたのことを頼まれていてね」
「ユウイチ、ぼっちゃん?」
「田口裕一。タグチ工業の現社長だ」
 チラとカウンターのなかに目を戻すと、あの四角顔の男がオレを見て、かすかに微笑んでうなずいて見せた。
「どうしてまたそんなことに……」
「話はいまから50年ほど前に遡る」
「50年!」
「うむ、半世紀。わたしと田口家との関わりは半世紀に及ぶのだ」
 そう言って、あの千葉真一がオレの隣に腰を下ろし、慣れた仕草でお茶を淹れてから、ゆっくりと話し始めた。
「あれはTBSの『キイハンター』の放映が3年目に入った頃のこと。主演のひとりだったわたしは、共演していた(野際)陽子と密かに付き合っていた。洋子は、それはそれはいい女だった。インテリで、フランス語もぺらぺらで。なにせソルボンヌに留学していたくらいだから。わたしはといえば、日体大の体操部だからな。最初はお高くとまった女だと思ったよ。でも、いつしかわたしたちはお互いを意識するようになり、いつしかなくてはならない存在になっていたのだ。ともあれだ、わたしはその冬の日、陽子を初めて福岡の実家に連れていこうと、買ったばかりのBMWのサイドカーに乗って東京を出た。新幹線だとマスコミにバレるから。当時はふたりともお茶の間のスターだったのだ。ともあれ、中国自動車道を走って、岡山にさしかかった頃だった。サイドカーの連結部分がかなり怪しくなって、あわててインターを降りて岡山市街に向かった。でも、サイドカーなんてまだまだ珍しい時代だったからどこに行っても見てくれない。いろいろ尋ね回って、ようやくたどり着いたのが先代の田口武男さんだった。『大丈夫ですかね?』と訊ねると、『しょわねえ、しょわねえ』と。意味はわからなかったが、言葉の雰囲気で助かったと思ったよ。それだけじゃない。人目を憚ってホテルに泊まれないわたしたちを、武男さんは家にも泊めてくれた。以来、田口家はわたしの大恩人なのだ」

*『ガジラ通信』本誌に掲載したものに一部加筆・修正しています。なお、本作品はフィクションです。登場する企業「タグチ工業」は実在しますが、部署名、人物名、人物のキャラクターのだいたいは創作です。