MY RIGHT HAND WITH G 『右手がGの男』
『左手がGの女』

 シャワーだ、とにかくシャワーを浴びるのだ。倉敷の大原美術館まで車で30分、指定の12時まで1時間以上ある。オレは昨晩の酔いを醒ますべく頭から熱いシャワーをかけ流し続けた。それから丹念にカラダを洗い、シャンプーしてから、普段めったにしないコンディショニングまでやった。なぜって? 差出人のハンドルネームだ。<ニキータ>なんて、黒いレザーのジャンプスーツが似合うような、すこぶるいい女に決まってる。そう、真木よう子みたいな。真木よう子、いいなあ……。
 15分遅刻した。大原美術館本館の二階にそれはあった。セガンティーニ作『アルプスの真昼』。絵のなかで放牧された羊たちと麦わら帽子をかぶったひとりの少女が高原の太陽に照らされている。
 このまばゆいばかりの光を放つ絵の前に、小太りのおばちゃんがひとり。<ニキータ>のイメージから離れること2万光年……悲しいかな、このおばちゃんが<ニキータ>にちがいない。雨も降っていないのに、左手にレインコートをかけている。オレがミリタリーコートを右手にかけているように。
「あの、昨日のメールですけど——」
「しっ!」、いきなり制止された。「静かに。この絵をまっすぐごらんなさい。しっかり目に焼きつけて、目を閉じるのよ。さあ、やって!」
 こんな唐突で理不尽なことも、やれと言われたらやってしまうのだ、オレという男は。絵のなかで女の子が樹にもたれ、羊たちと一緒に温かな陽を浴びている。目を閉じた。まぶたに高原の空と少女の簡素なドレスの鮮やかな青が焼きついている。ほどなくしてカラダがじわじわ温かくなってきた。このぬくもり、これがアルプスの太陽か! いつの間にか、まわりで羊の鳴き声まで聞こえてきた。
「あの……」
 甘えるような羊たちの声に混じって、抑揚のない女の声を聞いた。
「あの……遅いんですけど」
 無視していたら、またあの声だ。
「ねえねえ、遅刻なんですけど」
 うっすら目を開けて隣を見た。中学生ぐらいの女の子がいた。ショートカットで黒いセルの眼鏡をかけている。にらむようにしてオレを見上げていた。
「やあ、こんにちは、なにか用?」
「だから、遅刻でしょ、オタク?」
 生まれて初めて<オタク>と呼ばれた。アルプスの太陽の熱が一瞬で氷点下まで冷めた。反対側の隣を見ると、さっきまでいたあのおばちゃんがいない。うーん、展開がわからない。
「はて、キミはいったい誰なのかな?」
「あんたバカ? わたしがメールしたに決まってるっしょ!」
 同時に彼女の左手が鞭のように動いてオレの額を打った——。
 憶えているのはそこまでだ。そこからオレは深い暗闇に放り込まれたのだった。
 気がつくと、ひとりがけの革のソファに座っていた。その部屋は学校の教室くらいの広さがあり、そのほぼ中央にソファがぽつんと置かれている。四方の壁に窓がない。正面に白いドアがひとつ。そのドアノブが動いたと思うと、あの女の子が入ってきた。リノリウムの床に編み上げのブーツのゴム底がこすれ、高い音をたてた。
「おまえさ、頭ひっぱたいたよな」
 言いながら額に手をやる。ガーゼがはってあった。思わずはぎとった。ガーゼに500円玉大の血がついていた。
「おおっ! 血ィ出とるがっ!」
「ごめんね。へへへ」
 彼女は口の端にちらと舌をのぞかせた。そんなに軽くないのだ、額が割れているのだ。それにしても、あのときこの子はなにをした? 彼女の左手には凶器もなにもなかった。素手が触れただけのように見えた。そのときドアの向こうから鼻歌が聞こえてきた。
『キミが好きだよ、エイリアン♩』
 飄々とした調子でつづきを歌いながら痩身の男が入ってきた。待てよ、見たことがある……社長だ。面接のときに会った、タグチ工業の田口社長。
「娘がごめんなさいねえ。この通り、すいませんでしたっ!」
 そう言って、くいっと腰を折って頭を下げた。……娘? 展開がさっぱり読めない。でも、ひとつだけはっきりとわかったことがある。やはりこの右手、タグチ工業に関係があるのだ。

*『ガジラ通信』本誌に掲載したものに一部加筆・修正しています。なお、本作品はフィクションです。登場する企業「タグチ工業」は実在しますが、部署名、人物名、人物のキャラクターのだいたいは創作です。