MY RIGHT HAND WITH G 『右手がGの男』
『葉子』

 葉子と知り合ったのは2カ月ほど前のことだった。オレはその夜、缶ビールの6本パックとレモン風味のイカ天をもって、家の目の前のビーチで飲んでいた。シチュエーションからして、村上春樹の小説みたいにビールにピーナッツといきたいところだが、オレにはナッツのアレルギーがある。喉の奥の方が痒くなって、掻こうにも指が届かないものだから、カーッと喉から絞り出すようにして……そんなことはどうだっていい。
 12時を回っていたと思う。オレが最後のビールのプルリングを開けたのとほぼ同時、ひとりの女が海に向かって歩いていくのを見た。白いシャツにチノの短パン。なぜか手には料理で使うプラスチックのざるがあった。足もとに靴はなく、裸足だった。膝から足首にかけてのラインが見たことがないほどに美しい。オレはイカ天をかじりながら、真っ黒な海に向かっていくその2本の白い足に見惚れていた。女はしばらく水際で水と戯れているように見えた。ひざ下が浸かったあたりだった。女はまるで暗闇に吸い込まれるように、ぐいぐいと沖に向かった。まさかの光景にオレは思わず立ち上がり、海に向かって突進した。真っ黒な水面に、女のシャツの白がわずかに見える。オレは頭から水に突っ込み、そのまままっすぐクロールで沖に向かった。と思ったら、脚がつった。しかも両脚。もしかしたら足がゆうに地につくところで、オレは派手におぼれていた。しこたま水を飲んでもがき、死ぬかもしれないと思ったそのときだった。たくましい腕が伸びてきてオレの首をぐいとつかみ、そのまま浜に引きあげられた。オレはうちあげられたクジラよろしく、砂まみれになって浜の上に横たわった。あえぎながら、オレの顔をのぞきこむ女の顔を見た。さっきの女だった。端正な顔立ちにどこか憂いを感じさせる。完全にタイプだった……。
 葉子との出会いはざっとこんな感じだ。オレたちはすぐに一緒に暮らすようになった。というか、あれ以来、葉子はオレの家にいる。彼女があの夜海に入ったのは、タツノオトシゴをつかまえるためだったらしい。 「ネットで売っているマレーシア産って、すぐに死んじゃうの。だからあの晩は国産を探しに行ったのよ」
 彼女はタツノオトシゴのことは詳しく話すわりに、自分のことはほとんど語ろうとしなかった。かくいうオレも、訊かれてもいないのに自分のことを話すようなタイプじゃない。オレたちはお互いに身の上をほとんど知らないまま、それなりにその日その日を楽しくやっていた。十日ほど前には、どちらが言い出すでもなく、お互いに仕事を見つけようという話にもなった。それはこの生活がつづくことをふたりが願っている証だった。オレはそう思っていた。オレは幸せだったのだ。あの日、あの朝、ガジラがオレの右手にとって代わるまでは。
 葉子はオレのガジラの右手を見ても、さして驚きもしなかった。なにも見なかったようにオレに接し、それからの態度にもなんら変化はなかった。しかし、右手がガジラになって3日目の朝、目覚めると彼女は見慣れない服を着こみ、テーブルでコーヒーを飲んでいた。その横に、2カ月前この部屋に持ち込んだスーツケースがあった。
「あなたのせいじゃないの……わたし自身の問題」
 そう言って彼女は椅子から立ち上がり、スーツケースのキャスターの擦れる音とともに部屋を出て行った。オレはひとりテーブルに座って新聞を広げた。アイスランドにでも行って地元の新聞を読んでいるかのようだった。いつもは心奪われる『週刊新潮』と『週刊文春』の新聞広告も、まるで高齢者向けの健康誌のそれを見ているようだった。
 オレは抜け殻だった。かさかさに干からびた出汁がらのレベルで。風呂に入ろうという気になるまで1週間かかった。部屋の掃除をしようという気になるまでは2週間かかった。そして3週間め、葉子の残したわずかな荷物を片づけていたそのときだった。タウン誌の間に数枚のコピーが挟んであるのが目に入った。彼女が就活で集めていたハローワークの募集要項のコピーだった。目に留まったのは、そのうちの1枚の募集企業の名前。
<株式会社タグチ工業>
 ちょっと前まで、毎日のようにホームページを見ていた。その企業こそ、オレのこのガジラを製造・販売している会社だった。
 ホームページの情報によると、このガジラは油圧ショベルのアームの先に取り付けられる「アタッチメント」と呼ばれる建設機械の一種で、主にビルや家屋の解体に使用されるということだった。ひとくちにガジラといってもいろんな種類があって、それぞれの種類にサイズ・重量のバリエーションがある。オレのガジラに似ているタイプは最軽量のもので300kgほど。さすがにオレのこいつはそこまでの重量はない。どうやら流通しているものがそのままそっくり付いているわけではないようだ。 (それにしても、なぜオレの手に唐突にこのガジラが……。)
 久々に湧き上がった疑問が、萎えきったオレのカラダに活力を沁み渡らせた。この現実から目を逸らすことはできない。謎を解き明かしてはじめてオレは人生の新しいスタートを切ることができるのだ。そこで待っているフレッシュな人生は、これまでの人生よりもきっと輝かしいもののような気がする。そしてそこには、また葉子が寄り添っていてくれるような……いやいや、もうあんな女のことは忘れようよ、オレ。完全リセットだ。オレはタグチ工業の求人用紙を抜き取ってテーブルの上に置き、久々にコーヒーを淹れることにした。そうだ、一度あれを試してみよう。ステンレスのボウルにコーヒー豆を入れ、ガジラを使って高速スピードで豆を挽く、名付けてガジラ・ミル。
 なにはともあれ、まず手をつけるべきはこのタグチ工業だ。本社は岡山市北区平野。地図で見ると最寄り駅はJR庭瀬駅。なんとなくあのあたりだというのは察しがつく。オレは高速ガジラでコーヒー豆を粉砕しながら、この牙城をどう切り崩すかにあれこれ思いを巡らしていた。

*『ガジラ通信』本誌に掲載したものに一部加筆・修正しています。なお、本作品はフィクションです。登場する企業「タグチ工業」は実在しますが、部署名、人物名、人物のキャラクターのだいたいは創作です。