MY RIGHT HAND WITH G 『右手がGの男』
『晩餐』

 長船でのトレーニングでオレの戦闘能力は飛躍的にアップした。正直自分ではまったく自覚はないんだけど、千葉さんからもお墨付きをもらったほどだ。とはいっても、実際オレが誰かと戦うなんてことはリアルに考えていなかった。状況はまっすぐそのように進んでも、既のところで戦いを回避するような事態が起きてくれるんじゃないかと、そんな甘々な思いでいたのだった。
 そして目の前にオレのとはまったく違うタイプのガジラをしのばせた倉橋なにがし。ずんずんとこちらにやって来るその歩き方からして恐ろしいんだって。オレの心は完全シュリンクだ。もちろん顔なぞまともに見ることはできず、オレは意味もなくグラスを手にとってビールの泡を検分するかのように見つめた。萌絵子は違った。倉橋の顔を少し充血した目でねめつけるように見据えている。これじゃ穏便に収まるものも収まらない。オレの心はさらにちりめんじゃこみたいに縮み上がった。
「そこにいるお三方---」
 倉橋が冷たい声で言った瞬間、お店の女性スタッフが割って入った。
「お連れ様でしたら、あちらのテーブル席に移られますか?」
あまりのタイミングのよさに倉橋は完全に不意を突かれた。一度ぐっと言葉にならない声をあげ、彼女に示された窓側のテーブルに方向転換。こちらに背中を見せすたすたと向かった。オレたち三人は目を合わせてみたものの、ついていくより選択肢はなかった。萌絵子がまず立ち上がった。半分ほど残っているビールのグラスを手にもって。オレもグラスを手に萌絵子につづいた。後ろからやってくるドイちゃんのカラダがやけに小さく見える。萌絵子が一度テーブルの角に腰のあたりをぶつけてよろめいた。痛いとかヤダとか、女子高生みたいな声をあげている。やれやれだ。本当ならこんなヤツ、帰ってもらった方がなんぼかいいんだけど、オレの心はどこかで萌絵子をあてにしている部分もあった。大原美術館でオレにやったように、あいつの頭を割ってくれないかなと。
 テーブルでは倉橋がすでにシート席に座ってメニューを見ていた。オレたち三人は倉橋を見下ろすようにしてしばらく突っ立っていた。
「なにやってるの、座ったら?」
 倉橋の声に呪縛を解かれたかのように、倉橋の向かいに座った。奥から萌絵子、オレ、ドイちゃん。乗車率 150 パーセントの窮屈さだった。このシート席、もともと大人三人が座れるようにできていないのだ。萌絵子が「あたる、あたる!」と腕でオレをこづいてきた。
「しょうがないだろ! オレだってしんどいんだよ!」
「アンタのカタイのが当たって痛いんだって!」
 一瞬、妙な間が訪れた。オレはちらと倉橋の顔を盗み見るようにして見た。倉橋はなにもなかったようにメニューを見ていた。オレはなにを期待してたんだ? 突然怒りがこみあげてきた。それは自分に対しての怒りなのだが。
「ドイちゃん、向こう行ってくれよ!」
「ええっ! オレっすか?」
「ドイちゃん、デカいんだからさ!」
「くっ、くっ……」
テーブルの向こうで舌打ち聞こえた。
「もうこっち来い、ドイ!」
唐突に倉橋に名指しされ、ドイちゃんが目を丸くした。
「おまえ、広島にいた土井だろ? よく憶えてるよ。昔はドヤンキーで、髪も染めてキンキンだったよな?」
 ドイちゃんが恥ずかしそうな笑みを浮かべている。ドイちゃん、頭かいてる場合じゃないんだって。倉橋がメニューに目をやったまま左手で呼び出しのコールベルを押した。さっきの女性がすぐにやって来た。
「あのね、アンガスサーロインステーキ丼。それと生ビールね」
 ここでステーキ食う? しかもそんなのメニューで見たこともないし。ゼロだった戦意がさらにマイナスレベルだ。こんなヤツに勝てるわけないって......。
「夕方、社長と話したんだけど---」
 倉橋が言った。オレは目の前の男をこのとき初めてまじまじと見た。倉橋は薄手のナイロンのコーチジャケットを着ていた。いかにもアメリカンな感じがするのは、左胸に刺繍で入れられた「Dogsville」のロゴのせいか。倉橋の顔はわずかに黒ずんで、そのせいで目の白さが際立っている。怖い顔だった。しかし、その顔にオレは恐怖ではなく、オレは奇妙な懐かしさを感じていた。
「オレはもうアメリカに帰らないからな」
 うん? なにをおっしゃっているのかよくわからないんですけど。
「スパイはもうおしまいってことだ。全部社長が描いた作戦だよ。キミのお父さんね」
 そう言って、倉橋は萌絵子を見て笑みを見せた。やっぱり怖い顔だった。
「じゃあなになに、あんたオレたちの味方ってこと?」
思わず訊いてしまった。倉橋が眉を八の字にしてオレの顔を見た。
「あんたって、おまえなあ---」
 カチン。頭のなかで音がした。
「あれ、聞き捨てならないなあ、おまえって。それオレのことだよね? オレはおまえなんて言ってないぞ」
「おまえ……」
「ほら、また言った!」
「やめなさいよ、そんな子供みたいなケンカ!」
 言って、萌絵子はグラスに残っていたビールをぐいと一息で飲み干した。ロンTの袖で口のあたりを拭い、くいっと上げたその顔は完全に酔っ払いのそれだった。
「わけがわかんないのよ! どういうことよ、スパイって!」
「それはわたしが説明しましょう!」
 テーブルの横にいつの間にか田口社長が立っていた。その横にマグ・ゴン専務。そしてもうひとり、おお、あれはモーガンだ!
「話は二年前にさかのぼり---」
「お連れ様でしたら、どうぞ隣のテーブル席をお使いください」
 例のくノ一さながらの女性スタッフに言われて、社長がぐっと言葉にならない声をあげた。社長がしきりと天井のあたりを気にしながらオレたちの後ろの席に背中を合わせるように座った。その向かいに専務とモーガン。社長が喋ろうとしてこちらを向いた。同時にオレたち三人も振り返るようにして社長を見た。顔と顔が近い、近すぎる。社長も同じように感じたのだろう。いったん顔を戻して、うつむいた。なにをしているのかと覗き込むと、なんと、メニューを見ていた。専務とモーガンも、夜中にお腹が空いたからファミレスにちょっと寄ってみましたという風情でメニューに見入っている。テーブルに目を戻すと、倉橋が運ばれてきたアンガスステーキ丼にまさに口をつけようとしていたところだった。その状況は、佳境に差しかかった展開からはあまりにもかけ離れたものだった。

*『ガジラ通信』本誌に掲載したものに一部加筆・修正しています。なお、本作品はフィクションです。登場する企業「タグチ工業」は実在しますが、部署名、人物名、人物のキャラクターのだいたいは創作です。