MY RIGHT HAND WITH G 『右手がGの男』
『ジョーカー』

 その年は新型コロナウイルスのニュースとともに幕を開けた。中国の武漢での感染を伝えているうちは対岸の火事にすぎなかった。横浜へ寄港したクルーズ船から感染者が報告されたあたりから報道が熱を帯びて、テレビのワイドショーでは大半の時間を割いてこの未知のウイルスがもたらす影響について語るようになった。そして最近必ず論議されるようになったのが、東京五輪の開催についてだった。
 オレは長船の後、倉敷のアパートに戻って、次の連絡を待ちながら日々を過ごしていた。長船での緊張は緩むことはなかった。毎朝暗いうちから海岸沿いを走り、誰もいない岩場で小魚やヤドカリを相手にカッターをふるった。昼間は王子が岳に登り、ロッククライミングの難コースを次々と攻略した。カッターのはさみの部分がいまではカラダの一部のように感じることができる。オレのポテンシャルは日に日に研ぎ澄まされていった。右手のカッターに装着された名刀「島泳ぎ真光」のごとく……。
 WHOがパンデミックを宣言したまさにその夜だった。唐突に女がアパートに訪ねてきた。萌絵子だった。左手がGの女……大原美術館で会ってから随分長く経っているような気がするが、実際はあれから二月も経っていない。その間にいろんなことがありすぎた。
 萌絵子はドアの向こうでうつむいたまま、「部屋、入っていい?」と訊いた。
「入ってどうするんだよ?」
「お酒」
「はあ?」
「お酒あるでしょ?」
 顔を上げると、わずかに頬のあたりが赤らんでいる。そのとき初めて気づいた。萌絵子は酔っていた。酒を飲んでいようがいまいが、はなから家に上げるつもりはなかった。しかし、彼女がどうして突然オレを訪ねてきたのかはおおいに気になる。
 近所に行きつけの店があるからと言って外に出ると、萌絵子はとぼとぼとついてきた。ロイヤルホストのオレンジの看板を見て悪態をついたが、オレは無視して店に入り、いつものカウンター席に座った。メニューをもってきたウエイトレスに生ビールとフライドポテトを注文した。隣に座った萌絵子が右手を挙げて、「私も生ビール!」と言った。
「どうやってここに来たんだよ」
「リムジン。運転手つき」
「ああ、そうかい」
 萌絵子はひとつ大きなあくびをしたと思うと、突然カウンターに上半身を投げ出すようにして髪をかきあげた。用件を聞き出したら、タクシーでも呼んでさっさと帰そう。それがいい。オレたちはビールがやってきてもグラスを合わせることはしなかった(当然だ。なんのための乾杯だ?) お互い、しばらくただ黙ってビールを飲んだ。萌絵子のビールはさほど減らなかった。さっきからしきりにフライドポテトを口に運んでは、子猫のように指をぺちゃぺちゃと舐めていた。
 オレが二杯目を注文した直後、萌子が半分ほど減った自分のグラスに目をやったまま言った。
「あいつら、帰ったみたいなの」
「帰ったって、誰よ?」
「倉橋とクラッシャーズ」
 これか、オレのとこに来た目的は。そんなの電話一本ですんだことなのに。
「そうか、帰ったのか……なんでわかったんだよ?」
「軍の情報」
「どこの軍隊よ?」
「アメリカにきまってるでしょ? 昨日、厚木から海軍の専用機が本国に向けて飛び立ったんだけど、そこに紛れ込んだらしいの」
 はじめから関係性がぼんやりしているのに、海軍とか出てくると余計にわけがわからない。敵の境界線がはっきりしないっていうのは気色が悪い。でも、それも帰っちゃったとなればどうでもいいことなのか。
「ま、オレとしてはどっちでもいいんだけどさ。でも、なんで帰っちゃったの?」
「オリンピックの開催がなくなるからじゃない?」
「え、それって決まったの?」
「まだだけど、近いうちに延期が発表になるってお父さんが言ってた」
 お父さん……あの顔がまざまざと頭に浮かぶ。タグチ工業社長の田口裕一。
「でも、人数が合わないんだって」
「うん? なんの?」
「日本に来たあいつらの数と軍用機に乗った数と。ひとり足らないらしいの」
「モーガンかな?」
「誰、それ?」
「モーガン・フリーマン」
「ふーん」
「ふーんって、おまえなあ。知らないなら聞きなさいよ。知ってたら突っ込めよ」
「……ウザい」
「うっ、ウザい……」
 と、そのとき後ろで派手な足音が聞こえて、萌絵子の隣に崩れるように男が座った。黒いキャップをかぶり、青いツナギを着た大柄の男……うん? ドイちゃんじゃね?
「紹介するわ、わたしの運転手」
「ドイちゃんだろ?」
「あれ、なんで知ってるのよ?」
「なめんなよ、オレたちゃ親友だぞ。なあドイっぴぃ?」
「萌絵子さん、そんなことより」
 あれ、オレのこと完全無視か? 普通に「ドイちゃん」って言えばよかったか。
「緊急事態です」
「大の男が、慌てないの」
 萌絵子はけだるそうにそう言って、左手の人差し指でドイちゃんの額を突いた。
「痛っ! 萌絵子さん、やめてください。そっちの指、鋼鉄ですから!」
「いいの、いいの」
 萌絵子はなにがおかしいのか、声を出して笑った。この女の笑った顔を初めて見た。はっきり言って、お怒り気味の顔の方がまだかわいい。
「あの男がここに向かってるんですって!」
「あ、わかった。千葉さんだろ? 千葉真一」
 またしてもドイちゃん、完全無視。
「社長にも連絡しました。すぐにこっちに駆けつけるそうです! 急いで出ま——」
 ドイちゃんのつぶらな目がレジの近く、すらりと背の高い男に釘付けになっている。男はまっすぐこちらを見た。右手を挙げて、顔を崩すようにして笑った。異様なほど両の目がぎょろりとしている。怖い笑顔だった。
「ねえねえ、あいつ誰よ?」
 ドイちゃんがひとつかたい唾を飲んで、「倉橋さんです」と言った。
 そうか、あれね、あの倉橋ね……って、ジョーカーがいきなりロイホなんかにやって来るかね? こんいきなりな展開にも、しかしオレの心は冷静だった。オッケー、ビー・クールだ。オレの右手はというと、熱っ!

*『ガジラ通信』本誌に掲載したものに一部加筆・修正しています。なお、本作品はフィクションです。登場する企業「タグチ工業」は実在しますが、部署名、人物名、人物のキャラクターのだいたいは創作です。