MY RIGHT HAND WITH G 『右手がGの男』
『卒業』

 長船の生活もひと月が過ぎていた。店の仕事は肌に合っていた。洗い物やホールの配膳だけでなく、後半は厨房に立って寿司も握った。右手のガジラでひょいとネタをつかみ、左手だけで柔らかく握る。見ていた客から「にいちゃん、すげえな!」と拍手をもらったこともある。四角顔のドイちゃんに作り方を教わった店の名物「赤穂赤たまごのふわふわ焼き」も客の間で評判だった。
 仕事が終わった後は、毎晩店に残って、オーバル状のコンベアの上で回る寿司のネタ部分だけをひたすらガジラでつかみとる特訓に励んだ。最初はまったく歯が立たず、寿司をシャリごと潰したり、皿をコンベアにめり込ませたこともあった。だが、2週間もすると、ガジラのコントロールのコツのようなものがわかってきた。この店のコンベアは回転スピードの調整が自在で(タグチ工業が設計・制作したらしい)、上達に合わせてスピードを上げていった。千葉さんが「デイトナ」と呼ぶ最速レベルでは、あまりに早すぎてコーナーで寿司が皿ごと吹っ飛ぶこともあった。しかし、オレはその吹き飛んだ寿司を空中でとらえ、ネタだけを正確にとかみとれるまでに上達していた。
「その日がやって来たようだな」
 ある日の夕方、千葉さんは独り言のようにそう呟くと、店を閉めて奥のストックヤードにこもった。しばらくして出てきた千葉さんの出で立ち。濃い茶の和装で、黒い烏帽子をちょこんと頭にのせ、足元は白足袋に草履。これで軍配団扇を手にしていれば相撲の行司である。
「さあ行くぞ。ドイよ、車を出すのだ」
 ドイちゃんもいつのまにか作務衣のようなデザインの白い上下に着替えていた。頭に巻いた白いタオルが様になっている。オレにはわかっていた。彼らがオレのガジラに装着する新しいブレード作りにとりかかるのだと。そしてそれは、この長船に別れを告げる日が近いことを意味していた。
 オレたちは軽トラックに乗り込んだ。オレと千葉さんが助手席を分け合うようにして座り、ドイちゃんがハンドルを握った。ふたりのいでたちからして、山の奥深いところにある小屋のようなものを想像していた。しかし、軽トラックが行き着いたのは、なんと長船の観光名所、刀剣博物館。がらんとした夜の駐車場の、入り口に一番近いところにドイちゃんは車を停めた。
「ここですか!」
「うむ、ここの館長とは旧知の仲でな、施設のなかの刀剣工房を自由に使わせてもらっているのだ。もちろん、閉館した後の夜だけだがな」
 千葉さんとドイちゃんは正面玄関の鍵を開け、非常灯の青白い光の届かない暗がりを無言ですいすいと歩いた。刀剣工房は一階の奥まった場所にあった。 千葉さんはおもむろに床に膝をついて、もってきた大きな荷物からさらしに巻いた刀剣らしきものを取り出した。
「今晩、この刀に命を吹き込む。ハアアアアアッ!」
「あの、なんかオレ、手伝いますか?」
「……うん、そうだな、いっぺん店に帰ってくれるか?」
「え、なんで?」
「いや、ガス栓を閉めてきたかどうかあやしいのだ。きっと閉めたんだろうが、さっぱり記憶がない。もっと早く言えばよかったな。車のなかでもずっと気になっていたのだ。すまん、すまん。こんな気持ちで刀をうってもロクなものにならんからな」
「…………」
「あ、それからな、ついでに風呂を洗っておいてくれ。ここは冷える、寒い。帰ったら熱い風呂に入りたいなあ」
 オレは言われた通り、店に帰ってガスの元栓を確認し、それから住居のある二階に上がって風呂を洗っていたら急に風呂に入りたくなったので、さっと熱いのを入れて湯に浸かった。風呂から上がって刀剣博物館に戻ると、千葉さんとドイちゃんは作業を終えていたようだった。鉄を打ったり叩いたりというのは昨晩までに終わっていたそうで、今晩は最終の研ぎの作業の日だったという。
「おい、なんか顔がほてってないか?」
「え、そんなことないですよ。いつもこんな感じです」
 この暗がりでオレの湯上り顔を判別するとは、さすが千葉真一。
「ついにやったぞ」
 千葉さんの目の眼光がいつにも増して鋭い。その目は、手にした青光りのする刀剣から離れよいうとしない。
「え、なんっスか?」
「名刀、波泳ぎ兼光を超えた! 今宵、命名する──島泳ぎ真光!」
 切られたことに気づかず、川に入って渡りきったところで絶命する、これが天下の名刀波泳ぎ兼光。対して島泳ぎ真光は、切られたことに気づかず海に入り、島まで渡りきったところで絶命──。
「って、どんだけ鈍いんですか?」
「比喩に決まってるだろ、比喩!」
 千葉さんは言って豪快に笑った。
 翌日、店が定休日だったので、お昼に千葉さんとドイちゃんと3人で日生にカキオコ(牡蠣入りお好み焼き)を食べに行った。平日というのに30分は待っただろうか。しかし、それだけのことはあった。人生初のカキオコはめまいがするほどうまかった。それから牛窓のオリーブ園に行き、2階のカフェでコーヒーを飲んだ。うまいコーヒーだった。いよいよ別れが近づいていた。
「この1カ月、よく頑張ったな」
 千葉さんが言った。深みのある、包み込むような声だった。涙が出てきた。卒業だ。オレにとってこのふたりは学校であり、同時に家族でもあった。
 オレのカッターに島泳ぎ真光が装着されたのは、その翌日だった。

*『ガジラ通信』本誌に掲載したものに一部加筆・修正しています。なお、本作品はフィクションです。登場する企業「タグチ工業」は実在しますが、部署名、人物名、人物のキャラクターのだいたいは創作です。